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05 03/2014

日本の伝統音楽

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Eテレでやっている、schola/坂本龍一 音楽の学校というのを録画して見ています。
少しずつ追いかけながら見ているので、今は日本の伝統音楽の3回目、能と狂言。
恥ずかしながら、僕はほとんどその辺を聴いたことがない。
それらで使われる音楽は世界的に見ても珍しいものだそうで、とても奇妙だけど、どうにも美しい。

一人の研究者は、大陸から入ってきた雅楽や西洋音楽のように、理路整然とアレンジされた音楽だけでは日本人の感覚に完全にはマッチしていなかったのではないかという見解を語っていた。

演者である野村萬斎さんは、狂言の音楽は拍子(ビート)有りきで音を紡いでいるのではなく、高まった気を当てたところにたまたまアクセントが生まれ、ビート的な物ができるような感覚があるというような事を語っていた。
これには出演者みなが同感であるらしかった。

それはとても精神的で、ある意味非常に曖昧でランダムなところに妙味があるということなのか?

能や狂言はある種、舞踏(ダンス)でもある。
であれば、同じ音型の繰り返しはとても重要なんだろうと思っていたので、意表を突かれた。

最後に演奏された能で使われる音楽は、曲としての体をなしている様には感じられたのだが、どこまで決められた音を出しているのかは結局分からなかった。
笛なんかは日本の旋法(モード)によるインプロなのかな?
全体として拍子を感じないことも無いんだけど、ビートに頼るんではなく、息を合わせる事でタイミングを図っている様に見える。なにしろ、演奏者は全くアイコンタクトを取らない。自分と他の出す音にとにかく集中している。

すごい集中だ。

ビートがはっきりと介在していれば、合わせるのも容易いが、気配とか呼吸とかそういう曖昧模糊としたものを頼りにアンサンブルを組み立てるのはものすごく大変だろう。

編成は打楽器3人+笛。4人の演奏は鬼気迫るものがあった。本当に何かの儀式で、死者が顕在化しそうな勢いだった。

当然のように、後期コルトレーンが目指した音を連想したのは言うまでもない。
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